昭和41年04月30日 朝の御理解
親に係り、子に係り、あいよかけよで立ち行きと教えてくださる。親に係り、子に係り、あいよかけよで立ち行く。親のことは子が願い、子のことは親が願い、願いあい、頼み合い、とおっしゃる。親と子が、一緒に幸せを感じれれる、神様と氏子が、一緒によろこびあえれる、そういう信心を、させていただかねばならん。ほんとに私どもは、よい親を持って、幸せだと。よい親を持って幸せだと言っても、親のほうが、よい子を持って幸せだと思っていなかったら、こりや幸せではないですね
。皆さんが例えば、本当によい親を持って幸せだと言うとっても、親のほうが幸せでなかったら、そりゃ幸せとはいえんのです。ところがです親がねよい子を持って幸せだと言うときには、親も子も幸せんなときなんです。そうでじょうが。同じようですけども、違うでしょうが。ね。良い親を持って幸せだと。子供が言うておるけれども、親がよいこ子を持って幸せと思っていなかったら双方の幸せじゃないでしょうが。
ところがですね。親のほうがです。良い子を持って幸せだと、言うておるときには、子供は絶対幸せなときですよ。ね。その辺が分かるでしょうか。親がです良い子を持って幸せだと。親が喜んでおるときには、その子供も幸せなときですね。そこであたくしどもがです、ほんとに神様から良い氏子を持って、良い子を持って幸せだと、こう、おー、神様が喜んでくださる。いわば神様が喜んでくださるような、氏子に私どもがなり得たときに、私どもの幸せだということが、言えるんじゃないでしょうかね。
どうでしょうか。そのへんが分かるでしょうか。ね。教組の神様は、の場合なんか親神様のほうが、一礼申すとまでおっしゃっておる。金光大神一礼申すと。金光大神にお礼を言いたいと言うておられる。ね。この方金光大神あって、神が世に出たともおっしゃっておられる。ね。氏子からも神からも、双方からの恩人はこの方金光大神ぞ。とまでおっしゃておられる。まさかの時には、天地金乃神と言うに及ばん。金光大神助けてくれといえば、助けてやる。ともおっしゃておられる。あらゆる賛辞、あらゆるよろこびの言葉を持って、教祖をたたえておられますですね。
あたくしどもも、そういう信心に神習わせて頂かなきゃいけんです。どうでしょうかみなさん。親から本当に良い子を持って幸せだと、親に、ほんとうにしみじみ、子供に一礼言いたいというような、子供であるだろうか。親には無理のいいどうし、親には心配のかけどうし。それを言うてくれるから、私共は良い親を持っておるというておるだけでは、こりゃほんとの、あいよかけよではないようですね。
きのう、福岡の東さんのところお父さんの50日祭が午後からございました。もう本当にもう真心を込めた霊祭でございました。毎日、夜のご祈念に、勤務が終わって、警察官ですからね。勤務が終わって、夜、毎日参ってくるんです。よくせきな用事が無い限り参ってくるです。そして、特に、お父さんがなくなられてからこっちというものは、もうその、御霊の冥福ですね、いわゆる。御霊の幸せを心から願っておるです。
10日、10日のー、いわゆる、10日祭、20日祭というように、その、区切ったお祭りにも、ほんとに、自分一人ではあるけれども、真心を込めて、今度の50日祭には、親兄弟、子供たちもみんな一緒に、ここにでてまいりました。で、もうほんとうに、真心の限りを尽くした、神様へ、または御霊様へのお供えを、、さしていただいてからの、昨日のお祭りでございました。
前日から、28日に、50日祭にあたりますから、どうぞ万事お繰り合わせいただくようにという、お取次ぎでした。してあった。あたくしもだから、前の晩から、そのことば神様にお願いさせてもらい、そして今日の、1時頃からだったでしょうか、お祭りをさせてもらいました。神様にあたくし、その事を、報告させてもらい、お礼を申させて頂いておりましたら、あの神様のほうで、あの神様からお知らせをいただきますのにですね、子供の真心で親が助かるというようなことを頂くんです。
それが人間的には、非常に、立身、出世されたお父さん。小学校しか出られずに、しょうきん、横浜そうごう、横浜しょうきん、ですか、横浜綜合銀行ですかね、の頭取をなさっておられたぐらいですから。ほんなもうそれも、なられたばっかりでした。ですからもう葬式なんかは、銀行葬でしたから、たいしたお葬式だったそうですね。まぁ人間としの、いわば出世というか、まぁ花を咲かせての、まぁお国替えであった。子供たちもそれぞれに家内を持ってやり孫、弟の孫が、孫の顔見てからのことでございました。
早死にではありましたけれども、ところんなら、神様の目から御覧になれば、果たしてどうであったのか分からんのです。人間的には立身出世した人だったです、ようですけれども、家庭的に、または、その、人間的にはその、神様の目からご覧になれば、そうとはいえない、かったかもしれない。そう、そのところを神様が、いわゆる、子供の孫心で親が助かる、とこう。
昨夜、そんなことも、細々にお礼を申させていただいとりましたら、たとえてまぁ分かりやすい言葉で言うならです。もうほんとに、俺達は若いときからずいぶん、勉強はしとらんけれど、学校にはいっちょらんけど、勉強したと。そしてこれだけ、立身出世するためには、もう大変なことだったけれども、お前達はひとっつも勉強せん。親が勉強させても、親はどういう勉強でも出来るけど、勉強せん。
いわば立身出世もでけん。そげなこっちゃ。親にちっとみならわんか。というような気持ちであったけれども、実際、あの世のこの世の境をです、そして、あの世の人になられて始めて分かられた事は。今まで鼻高々としておった自分の、立身出世をです、子供の前にです、子供の前に恥ずかしい。子供の前に、ほんとに、子供の信心、子供の真心で、初めて助かった。初めて子供の値打ちが分かった。
子供の有難さが分かった。と、例えば、いうような情景を見せてくださったんですよね。生前中はですね、もうお前達は本当に、もう、お父さんの、を見習え。お父さんは勉強もしとらんけど、これだけの成功をしたんだぞと。これだけの家を、これだけの立派な家を、兄弟にも、ね、家もきれいな家をたててやる。立派な庭も作ってやる。それぞれに嫁ご呼んでやった
。何にも無いところから、おれはこれだけの立身出世をして、お前達は親に感謝せなでけんぞと、まぁいうような、気持ちでおったけれども、実際亡くなってみてから分からせて頂いた事は、それだけでは何にもならなかった。ね。御霊様の世界に入らせていただいたら、ね、人間の信用とか、人間の、いわゆる立身出世といったようなものは、何にも役に立たなかった。いわゆる、この世で、いわば、現世で徳を積んでおるか、おらないかということが問題になった。何にも無かった。
現世にこそ残しとったけども、あの世にのこしておるものは何にも無かった。けれども、幸せに、長男の嘉昭さんが信心をしておった、しかも真心一心の信心をさせて頂いておったおかげでです。子供のおかげで、お前の前に鼻高々とするようなことは間違いだった。いまこそ、お前の前にシャッポを脱ぐと。お前の前に頭を下げると。お前のおかげでと、たとえば、言うておられるような情景を頂く。
ね。初めて、本当に良い子を持って幸せだと、あの世の人になってから分かられた。けれどもそこに、わたくしは、東さんたちのこれからの幸せ、東さんたち親子の幸せがあると思うデスよね。よい、ね、親を持って幸せだ、ではいかんのです。親が幸せを感じていなかったら、幸せじゃない。けれども、親がです。良い子をもって幸せだと、言うときには、親も子も助かっておる時だと言う事です。
皆さんそうでしょうが。ね、そこんところを、教組の神様の御信心を、神習わせていただき、教組の神さまを、天地の親神様をしてです、ね、教組の神様が、ああした、もうこれ以上称える言葉はないというような、称え言葉をもって、金光大神に一礼を申すとまでおっしゃっておられる。こんな氏子みたことがなかった。というて、いわば驚嘆しておられる。その教組神様のうんなら、あられかたと言うものは、どういうようなあられかたであられたかと。
いわゆる、実意丁寧でおありになったということ。神信心でおありになったと言う事。ね。あたくし、昨日のお祭り、霊祭のなかばにです。東さんのお父さんも、何回かここに参ったこともありますし、わたくしもよくっておりますしね。皆さんもご承知でしょうがあの大きな色眼鏡を掛けておられましたですもんね。そしたらあの、お父さん、このめがねをデスね、こう、とられるんですよね。
そしてあの眼鏡を掛けておる人達がよくやりますでしょ、あの眼鏡が曇ったときに、こう拭くですたいね眼鏡をとってから。それもあのうもう涙なんかの、感激したときなんかは、眼鏡が曇るわけです。それであの感激しておる情景なんですね。眼鏡が曇っておるからそれをこう拭いておられるような情景なんです。お父さんが。しかもその拭いた眼鏡をこうはめようとなさったらですね、「あらこれは眼鏡がいらんごとなっとるたい」ちいうようなその表情ですもんね。
例えば10日、10日のお祭りをしたけんでっち、言う訳じゃないけれども、その間の子供の真心がです、御霊のいわば安心というか、御霊の位もだんだん進む。五十日祭を仕える時にはです、いうならばその今まで目が見えなかった、例えば人が目が見えるくらいの、おかげを頂いておるということ。今まで近眼じゃったつが、近眼が平生の目になおっておるというくらいに、おかげを頂いておるということ。まあだ色々と頂いたことで御座いますけれども、まぁ一部の事でも、そんな、まぁ、分かりやすく言うならばです、ね、御霊様が眼鏡かけてござるとは思いませんから。
けれども私達に分かりやすく表現して下さるとですたい、本当に良い子を持って幸せだと親が感激しておる。感激しておるその眼鏡が曇ったから眼鏡を拭いておる。そしてその眼鏡をはめようとした時には、もう既にですあらこれはもう眼鏡かけんでよかごと、おかげ頂いておるということ。初めて子供の前にしゃっぽを脱ぐ。子供の出来が悪いように思いよったけれども、出来が良いとか悪いとかが人間の値打ちじゃない。
もうその人の心なのだ。それが真心なのだとその我が子の子供の信心が、信心もなかったあたくしが、こういうおかげを受けられるというようなことをです、一礼申さんわけにはいかんのであり、ね、お前のまえに、頭を、いわば、シャッポを脱がんわけにはいかんお父さんは立身出世したんだぞと、いわば、鼻高々しとったけれども、そげなもんはなんにもならなかったと。そこで例えば皆さんの場合でもそうですよ。ね。
神様からいうなら、親先生から、良い信者をもって幸せだと、本当にこの人ん信心こそ、本当に、良い信心をもって幸せだと、親先生がいいなさるような、信者になったときには、その信者氏子じたいも助かっておるときである。おかげ受けておる時です。そうでしょうが。ところがいつも、神様に歯がゆい思いをさせる、まぁいうならば、親先生にまあおしかね、まあいっちょ、ここんところはこの人が、ね、本気で真心こめてくれにゃ。まぁ、お供えはどんどんするけれども、ほんに有難か、まぁ例えばんなら野菜なら野菜のお供えを致しましょうか。
私は昨日、経理の久保山先生ところの、息子の茂るさんが、ここでお届けさせて頂くときにです、そういうことがおおつかったときに、ほんにと思ったことがあるんです。せっかく親先生これだけの事が、成されて行よるので御座いますからね。いうならば、これだけの野菜なら野菜を、お供えさせて頂よるので御座いますから、泥だらけのお野菜をお供えしたんでは、相すまんと思いますから、これを綺麗に洗うて清めて、お供えして頂くような手配を取りたいと思います。と、こういう。ね、そこんところをどうぞ、おかげを頂ますように。とこういう。ね。
いかにお供えをしたからというて、喜ばれるのじゃない。それが真心でありそれが清められてあって、初めて喜ぶのである。それだけの行き届いた信心がでけて初めて、喜んで下さるのである。これだけの事をしておるから。これだけのしてあげよるから。と、例えば言うようなものでも、もしそれがあったらどう言う事になるでしょうか。ね。真心というものには限りがない。ね。洗うたうえにも清めたうえにも、清めさせて頂くという、ものが必要である。
お互いの心に。信心に。ね、そこを実意丁寧をもって、なさせて頂く時です、ね、そういう心がけの信心をさせていただくときにです、良い信者をもって幸せだと、良い氏子を持って幸せだと、神様が、親先生が喜んで下さっとるじゃなかろうかと。またそういうことができれるときに、あなた方自体も助かっておるときじゃなかろうかと。ね。そうじゃないでしょうかね。せっかく信心をさせていただくのでございますから、ほんとうに私どんはよか信心させていただいておる。
よか親神様にめぐりおうた。ほんとうにもう、わたくしども先生は、もうほんとに、まぁ偉い先生である。ね。よか親先生にめぐりおうたと。たとえば、うんなら、それぞれ、の、信者がたくさんおりましょうけれども、あっちこっちにね、教会もたくさんありますよ。そいで、やっぱり、じぶんとこの先生が、一番よかごと思うとるですよ。みんなが。や、だからそれが思えると言う事は、有難い事ではあるけれどもですたい、なら果たしてそこの親先生からです。
ここでいうなら、あたくしからです、良い信者を持って幸せだと、思われれるような信者になれた時に、わたくしは、その信者自体の助かりがあるのであり、親の助かりがあるのであり、ね、親の幸せが、子の幸せが、あるときじゃなかろうかと、わたしは思うのです。ね、それには、きばりどうしにきばっとる。がんばるときにゃ、がんばっとる。そういうもんじゃないです。問題はその中身が、貫いておるところの、実意丁寧神信心がです、ね、なされておるかどうかどうかと思う。
お供えひとつでもです、泥が付いたままお供えしておることではないだろうかということなんです。ただ願うときと頼む時だけ、と言うような事ではないかと言う事なんです。親からほんとに良い子を持って幸せだと、いわれる時にはすでに子供の幸せがあるのである。けれども子供が良い親を持って幸せと思っておっても、親が良い子を持って幸せと思うていなかったら、それは双方の助かりにはなっていないということ。
そこでいわば神様からです良い氏子をもってと、親先生から良い良い信者をもって幸せだと、喜んで頂けれる様ないわば信者のなかの信者といわれるような信心を、お互いが目指させて頂く時にです、私しは初めて本当の親の助かり、子供の助かりね、あいよかけよの道と言うのは、そういうところ子供のいわば、真実と言うか真心と言うかねそれが打ち出されたときに、それが出来るのではなかろうかと。
おか親がいかに俺は天地の親神様だと、えばったところで子供が子供、子供が親神様として立ててくれなかったら、ただ子供が小使いくらいにしかしてなかったら、どういうことになりますか。ね、神様をああだこうだとお願いするだけだったら、神様小遣いにしておるようなもんでしょうもん。ね、その親神様の思いが分かり、親神様の心に本気で沿おうという気になるときです、ね、始めて良い子をもって幸せと言うおかげになってくるのじゃなかろうか、そこに私し共の幸せが愈々ある時である。ね、
どうぞひとつ実意丁寧神信心というのも、そういう所にですね焦点をおいての信心。例えば一例を申しました、東さんの例なんかは良い例だと思います。ね、信心がなかったお父さんがですね、信心になる息子を持っておった事が幸せだと、しかも御霊の世界であたしゃこういう、だんだん取扱いを受けられる様にならせて頂いたのも、長男嘉昭のおかげである。今までは自分がえらいごと思っとったばってん、嘉昭の前にシャッポをぬいだと、いうておられる所に嘉昭さんの助かりがあり、お父さんの助かりがあるでしょうが。ね、そこに私しは本当に真心での信心が、本気でなされていかなけりゃならんということを思うのですね。
どうぞ。